昭和42年7月11日 朝の御理解
馬は、手綱の取りよう一つで、といわれております。常に、そうだろうと、馬は手綱の取りよう一つであろうと思います。えー、信心は、心の使い方ひとつ。ですから、いうなら、信心は、あー、心の使い方、心の使いようを、ま、稽古と言うても良いのです。ひとつの、おー、事でも、おー、嘘、百人百様でございましょう。ですから、嘘無しの自分の心の使い方に気付かせて頂いたら、これでは、なるほど、おかげが受けられんはずだと、いう風に分らせてもらって、いよいよ、有難い、心の使い方が、出来る稽古を、本気でしなければいけません。生神金光大神ち言う、此の方のことを、生神、生神というけれども、皆もこの様なおかげを受けられると言う。生神とは、ここに神が生まれるという事であるといわれる。皆も、そのようなおかげを受けられるという。生神とは、ここに神が生まれると言う事なのです。本当に、自分のひとつの、物の見方、考え方がです、ね。それこそ、おー、神様が思いなさるであろうと思うような心でものが見える。ね。ここなら、そう思えれるという事。そこに生神が、いわば、宿られると申しましょうかね。神が生まれるという事になるわけなんです。生神金光大神という一つの境地と申しましょうかね。それを、おお、御神格とも申します、また、その、そういう境地が、私共の心の中に、段々、開けてくる。
丸い、手毬のようなものへ、生神金光大神が、この丸い、いー、一つの毬のようなものであるとするなら、ね。それに、いっぱい、有難いとか、勿体ないという字が、書いてあるようなもの。どちらへ転がしても、有難いである。どちらへ転がしても、勿体ないである。そういう境地を、お互い目指して、日々、信心の稽古をするのでございます。確かにそうなんですよ。ね。確かに馬は、手綱の取りよう一つで、どういう、荒い馬でも使いこなし、乗りこなしが出来る。手綱さばきの一つの例。信心でおかげを受けるという事もそうなんです。もー、どのような場合でも、どのような事柄でも、ね。それに、即して、私共の心が、有難い、勿体ないという、頂き方が出来る稽古をするのです。ところが、有難い、勿体ないどころか、反対に、ね。実に不親切な、ね。実に傲慢な、実にずるい、そういう考え方が、私共の心の中におきてくる。そういう心に、これではと気付かにゃいけんと思うですよね。ほんとに、自分の心ぐらい、千篇万化と申しますか、様々に変わっていく。それを人間だからと、当たり前というところには、もう信心の向上はありません。心の使い方一つで、おかげが受けられるというのでございますから、やっぱり稽古しなければいけません。
昨日は、朝の御祈念が終わって、原さんたちが夫婦で、(御祈念にいかせてもらって?)そしたら、御祈念が終わって、皆さん、(録音状況不良)らして頂いたところが、また二人で参って見えられた。何事じゃろかと思うたら、昨日、御用奉仕が雨で出来ませんでしたから、今日は二人で、夫婦でおかげ頂きましたと、こう言われる。昨日は、終日、草取りの御用を頂かれた。前の日に、じっくりお湿りがあっておりましたから、草も取り良かったんです。本当に、夫婦、仲睦まじゅう、神様の、こうして御用が出来るという事。こういうものがですね、努めてであるとか、あれがああ言うからとか、折角、例えば、ほんなら、一日を、そうした御用に打ち込ませて頂くのでございますから、最高の心で御用させて貰いたい。する仕事に変わりはない。ね。けれども、その心の御用を頂いておる、その内容一つで、それが、おかげにもなる、徳にもなるというのでございますからね。
今日は、有難いと思いますね。夕べ、皆さん、話し合いがありまして、月次祭の後に、二十五、六名の方達が、あー、おかげを頂きたい。自動車をもっておる人、トラックを持っておる人たちは、銘々その、自動車を使って、えー、特に、あの、久富組の正樹さんは、あちらに、人夫さんを運ぶ車があるんですよね、トラックのような、あれを出して、あれで、えー、参って頂こうというように、銘々が、いわゆる、心をいろいろに砕いて、えー、何に、どういうものに不自由しておられるだろうか、ああいうものも良かろ、こういうものも持って行こうかという風に、夕べその、話し合いがあっているのを聞かせて頂いてから思うのです。全然、例えば、夕べの、お月次祭にお参りさせていただいて、お説教頂いても、心の動かし方がですよね、心の使い方がです、そげんな、そげんもせんでんという人もあったかも知れません。あそう、何にも思わなかった人があるかも知れません。聞いた途端に、ああ、ほんとにお気の毒だと、こういう時に、ほんとに、御用でもさせていただかにゃという風に思った人があるかも知れませんよね。その心の使い方一つで、あーた方の、おかげが決るのですから。ね。親切とか、神心とか。親切とは、親が子を思う切なる心とこう仰るです。本当に、それは、赤の他人の誰彼の上にでも、そうした、切実心というものが、親切の心というものは使えるものです。そこに、いよいよ、私共の、心というかね、神心を高めていかなければならない。いよいよ、心を限りなく美しゅう研いていかなければです。その時、その時に、とっさに、神様に喜んで頂くような心を作ることが出来るのですよ。の、お互いにですね、神様に喜んで頂けれるような心の使い方。いつも、自分の心のなかに、金光大神が誕生していかれるような心の使い方をですね、目指しての信心の稽古でなからなければならないと思うですね。どうぞ。
中村良一
2005年4月13日